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三重県の最南端から2つ目、熊野古道伊勢路の浜街道沿いに位置する御浜町下市木地区。

市木木綿(いちぎもめん)は、この土地で明治の時から紡がれてきた県指定の伝統工芸品だ。

縦縞のデザインが特徴的で、大正レトロ・昭和レトロを思わせる柄をはじめ、無地やボーダー柄などモダンなデザインも展開されている。

何より、独特のやわらかい風合いが特徴で、その秘密は引っ張ると簡単に切れてしまう最高級の「単糸」と、昔ながらの力織機にある。

織機は約100年前のもので、1台1台個性が違う。その日の温度や湿気によっても機嫌が変わってしまう

綿の織物には単糸と双糸があり、市木木綿には「単糸」を使う。単糸は撚りをかけていない、綿を伸ばしただけの糸で、引っ張ると簡単に切れてしまうほど柔らかい。実際織る時は糸が切れやすいので目が離せないが、織り上がるとふわっと柔らかい、手織りのような独特の風合いに仕上がる

糸の状態で染める「先染め」は手間とコストがかかるが、深みのある色合いが特徴。京都西陣で染めている

大量生産の生地は、高速で織るため目が詰まり過ぎているのに対し、市木木綿は目が詰まり過ぎていないので、お布団などにするにしても通気性がよく肌触りがとても良い

さらり、とした肌触りが気持ちいい、市木木綿の座布団

三重県には県指定の伝統工芸の木綿が3品もある。伊勢木綿、松阪木綿、そして市木木綿。日本全国でみると、会津木綿や三河木綿が有名どころ。御浜町という小さな町の、さらに小さな市木地区で、なぜ木綿産業が始まり続いてきたのか、その秘密を探る。

ただ一人、伝統を承継する職人

手間ひまかけ、一糸ずつ紡がれる市木木綿を織っているのは、現在では唯一の織元となった向井浩高(むかいひろたか)さん 53歳。

実は向井さんの本職は、布団職人だ。熊野市で祖父の代から続く布団屋を営みながら、市木木綿を織り、座布団などをはじめ、ハンカチなどの小物、昭和レトロ感満載の「もんぺ」も販売している。

向井さんが市木木綿と出会ったのは約20年前。布団の良い生地はないかと、日本中を探していたが、「これ」というものがなかった。そんな時、同級生のお父さんが織っている生地のことを思い出し、織工場を訪れた。

そこはまるでタイムスリップしたような、不思議な場所だった。ガシャンガシャンと大きな音を立てて動く機械は、大正時代から使われてきたもの。生地は新しいような懐かしいようなデザインで、向井さんには新鮮に映った。そして何より、その生地は今まで出会ったことのない触り心地をしていた。

向井さん「こんな近くに、これほどの良質な生地があったなんて、と衝撃が走りました。それから生地を仕入れて商品を作らせてもらうようになりました。」

織元は当時で2軒だけに。そしてそれから数年後、先代が高齢の為やめてしまうことになり、転機が訪れる。

「誰も後継者がおらず、このままでは市木木綿がなくなってしまうと思いました。 ただ僕自身やってみたい気持ちはあったものの、自分は市木の人間ではないので、継ぐには大きな葛藤がありました。そんな時、本業である布団の中綿の打ち直し依頼があり、御浜町のお客様のお宅へ伺いました。そして、ある市木木綿に出会いました。」

「この布団は自分のおばあちゃんが嫁入りの時に持ってきた布団だから、生地だけでも大事にとっておきたいんやよ。」

依頼主は当時80代のおばあちゃん。そのまたおばあちゃんの布団なので、100年以上前のものだ。

何でも大量生産で、新しいものを買ってはすぐに捨ててしまう世の中で、こんな風に大切にされる市木木綿ってすごいな、と感銘を受けました。この出会いをきっかけにどうしてもやりたい気持ちが高まり、市木の方や先代にも相談させてもらって。そして、決意を固め、先代から織り方や織り機の使い方を教えていただき、自分自身が織元となっていきました。」

これが布団の生地。本藍染で色褪せもなく100年ものとは思えない
その後おばあちゃんからいただき、向井さんの宝物に

市木木綿の歴史

市木木綿の始まりは、明治時代に遡る。

熊野古道伊勢路、浜街道沿いの市木村という小さな村が舞台。

市木川と熊野灘

「色々な人に聞いてわかってきたことなんですが、市木川は塩害があって、海の潮が田んぼへ逆流するような土地で、農作物がなりにくい土地だった。その副業として木綿織が盛んになったようです。当時村のために尽力された大久保家が、みんなで豊かになるために、市木木綿というブランドを作って「はじめていこらい」と言って始まった。

「ふるさとの思い出写真集熊野」より 大正時代の織工場の様子

市木木綿を織る仕事は結婚する前の若い女の人がやることが多かったそう。
市木の工場で行儀見習いをして、お嫁入り道具の中に何反か入れて嫁に行くというのが習わしで。織修行をしないと嫁入りする資格がないといわれるくらい、若い人が働いていたそうです。」

糸を成形する人、染屋さん、出来上がった糸を売る人、そして織元。明治・大正の最盛期には45軒以上の織工場があった。

しかし昭和に入ると、戦争の鉄砲の弾にするために、機械が取り上げられた。

戦後に再開したものの、高度成長期に入ってくると、生地の幅が狭く大量に作れない市木木綿は、大きな機械で高速で作れる大量生産品に淘汰され、徐々に携わる人が減っていった。

廃業し廃墟となった織工場から出てきた、当時の就業規則

その後は縮小しながらも、数軒の織元が生地を織り続け、ファッション誌で取り上げられたり、パリコレデザイナーが生地の買い付けにきたという逸話も残っている(デザイナーを知らなかった織元職人は、なんと追い返してしまったそうだ…)。

そして現在、唯一の織元がその歴史を紡ぎ続けている。

縦縞に横糸の色を変えるだけで、違う表情に

市木木綿のこれから〜未来へ紡ぐ〜

2022年秋、市木木綿の歴史に節目が訪れる。新しい織工場の開業だ。

新天地は、地元の人に愛された和菓子屋さんだった場所

「これまで先代の織工場をお借りしてきたのですが、この度場所を移転をしなければいけなくなりました。自分は熊野市に布団屋があるので、そこに移したらどうかという声もあったんですが、僕は絶対市木に残すべきだと思っています。市木木綿はただの生地ではなくて、生まれた歴史的背景、紡がれてきた人々の日常や思い出が、詰まっているんです。だから、市木地区でやらないと、市木木綿じゃないし意味がない。

今までは織るだけの工場でしたが、新しいところは2階にスペースがあるので、展示スペースにしたり、工場見学のあとにワークショップなんかもできるので、それが楽しみです。

僕が言うのはおこがましいですけど、地元の方も市木木綿について「え、そういうことやったん」と言われることがあるので、地元の方にもぜひ遊びに来ていただきたいですね。」

市木木綿にまつわる歴史を熱心に語る向井さん。ツアーも今後開発していく

これまでも年に数回、小学校や高校の授業で市木木綿のお話をしたり、工場見学会を開催してきた向井さん。

参加した小学生からもらったお礼の手紙に、こう書いてあったそうだ。

工場見学も香り袋作りもすごく楽しかったです。香り袋今でも使っています。

浩高さん、次は僕に市木木綿を継がせてください!

「市木木綿に興味を持って、やってみたいとまで思ってもらえたなんて、ものすごく嬉しかった。

今までは僕が借りてやっている状態だったので、後継者なんて言えなかったんですけど、新しい場所へ移るのでそういうことも考えられるようになりました。

いま53歳なので、あと20年くらいはできるんじゃないかなと思うんですけど(苦笑)、その時にはもう無償で譲渡しようと思っていて。そしたら市木の場所で市木木綿が続いていけるんじゃないかなと思っています。そういう場所になってくれたら。

和菓子屋時代のアイテムも何かに活用したい、と楽しそうな向井さん

僕自身も市木木綿というものを大人になって、30過ぎてから知りました。出会えてから、こんな素晴らしいものがあったと知ったんで、地域のことって意外と知らないことが多い。色んなことを知ってもらって、この地域のことをもっと好きになってもらえたら嬉しいです。

― 今日も御浜町 下市木で、織機の糸と音が 歴史を紡いでいる

(2022年4月取材)

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