愛知県からIターン/50代/みかん農家/4人家族
寺西 勉さん
「自分で作物を作るわけですから、自分でやりたいようにできる。それは会社勤めではなかなかできないことで、農業の魅力だと思います。それで自信を持っておいしいものができたら、お客さんにも喜ばれるわけですし。こんなに楽しいことはないと思います」園地を訪れると、山の向こうから子どもたちの「やっほ〜!」という声がこだましている、のどかな昼下がり。寺西 勉 ((てらにし つとむ)さん、57歳。愛知県で生まれ育ち、35歳の時Iターンで三重県御浜町へ移住。みかん作りを始めて20年になる。就農へのきっかけは、20代の頃、青年海外協力隊として赴任したフィリピンで、ある夢を抱いたことがきっかけだった。「赴任地がすごく田舎だったんです。でも子供たちはすごく元気で明るかった。こういう田舎で子育てをしたい、という夢を抱きました。田舎でする仕事といったら、その土地の産物だろう、農業だろうと思い立ち、就農することにしました」北海道から九州の先端まで訪れ、“年中みかんのとれるまち”として親しまれるみかんの産地・三重県御浜町に移住を決意した。
「柑橘栽培は全く初めてでしたが、御浜町はみかんの産地なので、技術的にもしっかりしていて、分からないことがあればすぐ聞ける。売り先も農協がしっかりしていたので、一番入りやすいだろうと思いました。いろんな農業フェアに参加するうちに御浜町と出会い、現地に相談しに来て、移住を決意しました」「ここでならやっていける。」先輩たちがこれまでに築いてきた産地としての信頼感が、背中を押した。
御浜町に移住して、寺西さんの「田舎で子育てをしたい」という夢は叶うことになる。移住前に結婚した奥さんとの間に、2人の子どもに恵まれたのだ。「結婚前から、妻には農業をしたいと話していたので、快くついてきてくれました。今は1年間の作業を2人でやっています。今となっては、みかん作りは僕より妻の方が詳しくなっています。彼女の場合は家計があるので楽しいとばかりは言っていられないでしょうけど(苦笑)。 子どもたちも物心がついたときから、『うちはみかん農家だ』ということを理解していて。自信を持ってうちはみかん農家で熊野・御浜出身だということを話していて、この地域で育ったことは良かったのかなと思います。みかん作りにおいて、子どもの成長が一番のモチベーションですね」移住した当初は1人目のお子さんが生まれて半年ほどで、ベビーカーを傍らに置いてみかんの収穫をしていたという。そしてなんと、生まれた娘さんに、みかんにまつわる名前をつけたそう。「みかんで家族を育てていく」 そんな覚悟も込めたのかもしれない。丹精を込めて育ててきたのは、みかんだけではなかった。
御浜町での生活は「すごく暮らしやすい」と話す寺西さん。住まいがあるのは、400世帯ほどの集落がある神木(こうのぎ)神木地区。各家にお祀りしている神様がいて、自然や神様への畏敬の念を大切にしている風土があるそうだ。神木にあるイヌマキの木は、県内最大級の巨木(樹高約20メートル)として、県の天然記念物となっている。この地区を温かく見守る存在だ。
「神木地区は、自然に対する信仰心がすごく厚い地域だと思います。ほとんどの人が僕のことや子供のことを知ってくれています。御浜町は小学校も小さいですけどしっかりと子供の面倒をみてくれますし、子育てするにはすごく安心してできる所だと思います」
「軌道に乗るまでは経済的に大変な面もありましたが、楽しかったですね、それも含めて」
Uターン就農とは違い、知り合いがいない土地でゼロから農業をスタート。他の農家とコミュニケーションをとる中で、たくさんの”いいみかん作り”のヒントを得てきたという。その中でも、寺西さんのみかん作りの原点となったキーパーソンがいる。
「一番影響されたのは、初対面の私に3時間くらいみかんについて熱く語ってくれた師匠です。『みかん作りは楽しいものだ!』という熱意がすごかった。こんな方がいるんだと感銘を受けて、僕もみかん作りをしようと思いました。師匠のみかんに追いつこうと、日々努力していても、やっぱりまだまだ。毎年、みかんを最初に採る時は、師匠の園地に行って何個か頂いて、自分の作ったものと今年はどう違うのか食べ比べてみます。糖度と酸度という数値はそれほど違わないとは思うのですが……。食べてみた時の甘さの質というかコク、食感というか。皮が薄くて食べやすくてとか、そういうところはちょっと違うな、と思います。それに近づきたいです」
日々研究を重ね、みかんと向き合う。その過程で自分自身の成長も感じてきたからこそ、「苦労も含めて楽しかった」と言えるのだろう。
「栽培を始めて2~3年はいいみかんができなくて経済的には大変だったんですが、徐々においしいみかんができるようになって。甘いのがたくさんできたら自信を持って売れますし、お客さんも喜んでくれたら、こんなに嬉しいことはないですね。この産地のみかんは、よその産地に負けないと思います」
師匠から学んだことは技術だけではなく、「いいみかんを作りたい」という熱い想い。寺西さんにとって、師匠は今もこれからもずっと、大きな存在であり続けるのだろう。
「いいと聞いたことは全部やってみる」というのが師匠のポリシーだったそう。そのため、ご自身もみかんに良いと聞いたことは何でもやってみるという。柔軟な姿勢が、いいみかん作りの秘訣なのだろうか?
「僕はみかん職人だと思っているんです。生きもの相手なので、合わないものをやるのはダメですし、いいと聞いたものはやってみて少しでも変わってくれたらと思います。例えば、糖度が1度2度上がるって聞いたらそうしてみたり。ただ、それには資材を使ったりマルチを敷いたりと、お金のかかることなので、すぐにはできないこともあります。そんな時はマルチも全部は敷けないから半分だけ敷いてみたり、例えば液体肥料なら500倍に薄めて使うって書いてあっても、1,000倍でやってみたり。とにかく何でもやってみますね」従来のやり方に囚われず、試行錯誤を重ねる。年に一度しか努力の結果が分からない世界だが、それはつまり、努力を積み重ねることでずっと成長し続けられる職業なのかもしれない。
みかんの売り先は、極早生温州(ごくわせうんしゅう)はほぼ農協出荷で、早生温州は個人への小売りがメイン。出身地の愛知県でも販売しているという。今となっては20年のキャリアをもつ寺西さんだが、下積み時代を経て、ここまで辿りついていた。「みかん作りを始めてだいたい3~4年経った頃に、まずは名古屋に友達のつながりで持って行って、それから個人のお客さんが徐々に増えてきて。電話で注文を頂いて発送していました。大切にしていることは、お客さんを裏切らないこと。喜んでもらえるようなおいしいみかんを作ることです。農業というのは天候に左右されるので、おいしい年・そうでない年もある。でも今年のような雨年でも、ちょっと工夫してマルチを敷いて糖度を上げるとか、人に聞いて勉強しながらやってみて、そしたらお客さんにも喜んでもらえるようになる。そういう日々の努力、工夫ですね」
“寺西さんのみかん”だからこそ、食べたい。そんなファンが生まれたのは、ひとえに、みかんを通じて想いが伝わったからなのだろう。
「とにかくやってみようという情熱がないとなかなか続けられるものではないし、最初から食べていける収入があるわけでもない。それを乗り切れるだけの熱意と情熱は必要だと思います。でもやっているうちに、徐々に畑や作物のことは分かってきますので」
「新規就農者として、とにかくここで楽しくみかん作りをして、ちゃんと子育てをする、それが一番の僕らの仕事」と熱を込めて話す寺西さん。彼の目に映る「みかん農家」という仕事は、一体どんなものなのだろうか?「御浜町に来られただけで丸儲けじゃないですか。ちゃんと子どもを育てることができたら後は何を望もうっていうくらい。みかんをちゃんと育てれば、一家を構えて子どもを大学に行かせることができる。そういう職業だと思います」「もっと美味しいみかんを作ること」今の寺西さんの夢だ。
縁もゆかりもなかった土地で、みかんをつくり、家族が生まれ、夢を叶えた。自分で道を選び築いてきた居場所で、これから先もみかんと共に家族と生きていく。そんな決意を含んだ静かな情熱が、みかん職人の目に灯っていた。
(2021年10月取材 文・益田 奈央)
寺西さんのストーリーを動画でもお楽しみください。
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