神奈川県からIターン/40代/みかん農家/家族4人
福田 大輔さん
三重県南部、人口約8,000人の小さな町、御浜町は「年中みかんのとれるまち」として知られている。本州最南端に近く、温暖多雨な気候と柑橘栽培に適した礫質(れきしつ)の土壌を活かし、年間を通して様々な種類の柑橘栽培が盛んな町だ。
近年、三重県御浜町は「持続可能なみかんの産地」を目指し、日本中からみかん農家の担い手を受け入れている。
神奈川県横浜市出身の44歳、福田大輔(ふくだ だいすけ)さん。
横浜から三重県に家族で移住して8年目、御浜町でみかん農家となって4年目。
「色んなことをやってきましたね。イタリアンの厨房で働いたこともありますし。ずっと悩んできた気がしますね」
SDGs(持続可能な開発目標)にも記載され注目されている概念「Well-being(ウェルビーイング)」
それは、簡単に言うと、「心と体が健康であること」そして、同時に「社会的にも健康であること」
「僕の場合は『夢中になれるもの』と『仕事』って考えた時に、自分には農業が合ってたんだと思います。作業中にふと顔を上げた時に、目の前にある風景を見て、『良かったなぁ。今までの生活から抜け出して、今の生活になって良かったな』って、いまだに思いますね」
農家になって今までの人生になかった幸せを手に入れた。自然の中で働き、作ったものが誰かを笑顔にして、その笑顔で自分も幸せに。そして、人口減少が続く小さな町だからこそ、誰ともとって変わることのできない、『自分自身(福田大輔)』を求められる幸せを知った。
20代前半は、サーフィンに夢中になり、アルバイトでお金を貯めては海外でサーフィン三昧、帰ってきてはまたお金を貯めるような生活をしていたという福田さん。
「いい加減、このままじゃいけないなって。『夢中になれるもの』を仕事で。一生かけて自分を磨いていくみないな気持ちに傾いていきました。夢中になっている自分が好きなんですよね」
しかし、20代は思い悩む時間だったと話してくれた。
それから10年あまりが過ぎた30代半ば。横浜で港湾関係の会社員をしていたが退職。
その『夢中になれるもの』を探しに、家族3人で旅に出た。
「なんかもう窮屈だったんですよね。都市部で生まれ育って、神奈川の中で人が少ない地域に移り住んだりもしたんですが、やっぱり都市部は人口が多くて。特に、三重県に行こうとかはなかったんです。とりあえずは四国の方まで行ってみようと。家族を連れてテントだけ持って西の方に向かいました」
四国よりずっと手前、旅の途中で出会った三重県に移住することになった理由は何だったのだろうか?
「たまたま通りかかった熊野で、この辺いいねとなって。海もなんですけど、山が凄かったんですよ。パワーが凄くて。」
そんな熊野の雄大な山々に魅了され、人との出会いにも恵まれ、旅は予想外に早い終わりを迎えた。
「ここにしようかって感じで、奥さんもそう言ってくれたんで。それで、そのまま住み着いちゃった感じです」
それからも、『夢中になれるもの』を探す旅はしばらく続いた。
最初に移住した場所は御浜町の隣、三重県熊野市の五郷(いさと)という山間の集落。そしてマグロの養殖場で働き始める。
「最初は農業ってさほど考えてなくて、自給自足の暮らしみたいなものに憧れを抱いていた気がしますね。自分たちが食べるものを作りたいという気持ちの方が強くて」
そんな思いもあり、野菜を作って生計を立てられないかなと考え始めた矢先に、近所の人から就農希望者には補助金が出ると言う話を聞き、熊野市役所に話を聞きに行くことにした。
「何の計画もなく、『補助金が出るって聞いてきました』と。すると『そんな軽はずみな気持ちで来られると困ります』って言われて(苦笑)」
その後、何度か計画を作ってはやり直し、県の農業普及担当者との面談にようやく漕ぎつけた。しかし、
「福田さん、やる気はわかるんですけど、この計画ではちょっと厳しいですね」と、一刀両断されてしまった。
「その時果樹担当の方が同席していて、最後にその方が『福田さん、果樹やりませんか?みかん作りましょうよ』っておっしゃったんです。その時は、『僕は野菜作りたいって言ってここに来ているのに、急にみかんっておかしいでしょ』って強めに返しました」
しかし、考えてみればみるほど、住んでいた地域は県内でも有数のみかんの産地で、野菜よりみかんの方が安定しているのではないか、という考えに行き着く。
三重県御浜町は、『年中みかんのとれるまち』と言われ、温暖多雨な気候、柑橘栽培に適した乾きやすい礫質の土壌などの特徴を活かし、古くから年間を通して様々な種類の柑橘類が栽培され、東海地方を中心にみかんの産地として知られている。
「当時、実はみかん農家でアルバイトをしていて、その農家さんが同い年なのにみかん農業でバリバリ稼いでいる方で。その影響で、俺もみかんでバリバリやりたいと、やる気スイッチが入りました」
紆余曲折を経て、担当者に「みかんをやりたいです」と伝えると、御浜町の農家を研修先として紹介してくれた。ここから、福田さんのみかん農家としての人生が始まっていく。
「三重県の就農サポートリーダー制度」とは?
就農希望者に対して、技術の習得のための実務研修や、就農等に必要な農地の確保など、地域と連携して総合的にサポートする農業者の登録制度で、登録した農業者が研修生などの受け入れを行っている。
福田さんの研修先のサポートリーダーは、若手の育成や他所から移住してきた就農希望者を受け入れる活動や、持続可能な産地への取り組みに熱心な方だった。
「みかんで成功している方で、とにかくどういう考えや動き方でやっているのかを見て、できる限り取り入れていこうと考えながらやっていました。独立したら一人。僕は蓄えもなかったので、師匠はそういうのも見越して、僕のような素人にあえて大事な木の剪定とか難しい作業をやらせてくれました。多分、普通のみかん農家さんだったら嫌がるんじゃないかと思うようなことを、ちゃんとやらせてくれていましたね。細かいこと気にすんなって感じでやらせてくれました。1年目は言われたことを必死にこなして、2年目になると、質問する内容もより専門的になって。2年間やって良かったなと思います」
福田さんは、サポートリーダーの元での2年間の研修をこのように振り返ってくれた。
研修は基本的に1年間。希望すれば、福田さんのように、2年間に延長することもできる。
一方で、2年間の研修期間中は収入が補助金(就農準備資金*)に頼るしかなく大変だったと当時を振り返る。
今でもサポートリーダーにはお世話になっていて、「何かあったらすぐ聞きに行きます」と嬉しそうに教えてくれた。
そして福田さんは、住む所は農地に近い方が良いという考えから、研修後の独立に向け家を探し、家族で熊野市から御浜町へ移り住むこととなった。
*「就農準備資金(補助金)」とは?諸条件をクリアした就農希望者は、研修期間中に月12.5万円、年間最大150万円の資金を最長2年間交付してもらうことができる制度。詳しくはこちら→
「サポートリーダーが研修中にある程度の農地を抑えてくれていて、それが6反(0.6ha)くらいあったのかな。独立してすぐに農協の仲介でさらに2反(0.2ha)。計8反(0.8ha)くらいで始めた気がします」
立て続けに、独立時の初期投資について聞いてみた。
「僕は本当にお金がなかったので、ほとんど周りの人から物をもらっていました。軽トラももらったし、動噴(どうふん)も持ってなかったらあげるよと言う方が現れたり」と笑いながら答えてくれた。
柑橘栽培は、稲作で必要な田植え機やコンバイン、いちごなどで必要なビニールハウスと比べて初期投資がかなり少なく済む。例えば、必要最低限の大きなものを揃えるとして、軽トラ、動噴(みかんの木を消毒する際に使用する動力噴霧器)、タンク(薬剤などをいれる液体用のタンク)などがあればとりあえずは始められる。その後、毎年、儲かった分で必要だと考えるその他の機器(選果機など)に投資していくやり方を移住した農家さんが教えてくれた。柑橘栽培は、初期投資が少ない分、若者などにも始めやすい作物だと言われている。
御浜町では、新規就農者の初期投資額をできる限り低く抑えることができるように、農機具バンクという取り組みを始めている。 使われなくなったり、引退された農家さんの農機具や軽トラなどを必要な方にマッチング。その制度を使って最近、軽トラが無償で譲られという話を伝えると、
「本当にいい取り組みですね。僕はそれで一番苦労したんで。銀行も最初はお金を貸してくれなくて。欲しいものも買えなかったんで、それは素晴らしいと思いますね」
「1年目の売上は600万円くらいかな。農地の広さや品種によって変わってきますが、大体その時の面積で成功したらこれくらいっていう数字にはなれた年だったなと思います」
と、福田さん。
「御浜町に農地バンクっていう制度があって、僕も時々チェックします。農地を手放したい人と欲しい人をマッチングする仕組みがあります」
それでも、1番大事なのは地元の農家さんとの繋がりだと教えてくれた。
「農協が開いてくれる品種ごとの講習会があって。そこに農家さんがたくさん集まるので、そこで自己紹介して、農地を広げたいですと言っていると、声をかけてもらえたりします」
福田さんの現在の品種構成はこうだ。7月 漢方薬に使用される薬用甘夏9月 超極早生温州みかん(味一号)10月 極早生温州みかん、その後は早生温州みかん1月〜2月 甘夏やデコポン3月 カラマンダリン
御浜町では、1年を通して、様々な柑橘類を栽培することを推奨している。柑橘栽培では収穫時期が繁忙期になるので、様々な種類の柑橘類を栽培することで、収穫時期をずらして、作業の労力を分散する。さらには、自然災害、病害虫などのリスクの分散、年間を通して収入を得ることができようになる。
「出荷はほとんどが農協ですね。農協に出荷できないものを小売りで売ったりもします」
「味一号じゃないですかね」
御浜町の特産品で、本州で最も早い時期(9月中旬)に収穫され、地元では青切りみかんと親しまれる温州みかんのひとつ。
「味一号は極早生温州みかん(9月下旬頃から10月に出荷)よりも早く出荷できる、超極早生温州みかん。みかんなので黄色く色はついてくるのですが、9月上旬のまだ青い状態でも、味が良くて。早く出来上がるのは商品としては一番強みじゃないですかね」
三重南紀では、付加価値の高い品種の開発に長年取り組んできた結果、温暖多雨な気候と独特の礫質の土壌などの地理的条件を活かし、全国的にも珍しい、9月中旬に出荷することのできる超極早生温州みかん「味一号」を誕生させた。5月に花が咲き、9月上旬には収穫できる超極早生温州みかんは、収穫するまでの期間が短い分、作業期間の短縮・台風などのリスクの軽減が必然的に見込まれる。
「糖が高くて、酸味もほどよくあって。“爽やか”って表現されることもよく目にします。最近は、9月でもまだまだ暑さが残るので、甘すぎることなく、その頃にぴったりな味のみかんだと思います」
「味一号の商品としての意味はとてつもないですね。御浜町は西も東も巨大な産地に挟まれていて、さらに年々みかん農家数も減少、生産量も落ちていっているのが現状で、大量に市場に出荷する力が弱いんです」
「どうしても、量がないと大規模流通に乗せることが難しくて。でも味一号の時期、9月中旬っていうのは、他の産地のみかんがまだ市場に出てきていないんですよね。だから、この三重南紀のみかんが1番乗りできるんですよ」
「他の産地でも味一号を作ろうとしたらしいですが、気候や土壌の違いか難しかったらしく、現状はJA三重南紀だけの品種となっています」
味一号は、9月中旬には食べられるおいしい温州みかんとしての地位を築きつつあり、希少価値の高い商品として、市場のニーズが年々高まり、近年は価格も高値で安定しており、御浜町では他産地と勝負できる商品として栽培が奨励されている。
「市場関係者はこれが欲しいから、味一号を売ってくれるんであれば、他のみかんも年間を通してある程度の値段で買取りますよ、という状態になっているみたいです。だから、御浜町のみかん農家にとって、味一号の持つ価値は計り知れないものがあります」
「自分の農地でも味一号をどんどん増やしていきたいと思っています。稼げる品種なので。でも、空いている農地はなかなか見つからないので、今ある品種を味一号にどんどん植え替えていってます」
もしかして、味一号だけを栽培すればもっと稼げるのでは?という疑問をぶつけてみた。
「稼げる品種だけで1年分稼ぐみたいなことは好きですけど、1人でやっているので、作業が一時に集中すると手が回らなくなります。収穫のアルバイトの方にもきてもらったりもしますが、それだけ大量のみかんを収穫するための人を集めることは僕には難しいので、年間売上目標を立てて、その数字に届くように様々な品種を分散させていますね」
そんな中で休みはあるのですか?と尋ねると、「休みはとれますよ。繁忙期(9月、10月頃)は難しかったりしますが、雨降ったら休みとか、子供の運動会の日は休みにするとかそういう融通は比較的効きますね」
また、御浜町では年間で1番忙しいと時期と言われている超極早生・極早生みかんの時期(9月・10月頃)の人手不足を少しでも解消するために、一つの試みが始まった。
「御浜町役場職員の副業制度」だ。
人手が集中して必要な収穫時期に限定し、休日などを利用しての町職員の農家での就労を許可する制度を開始し、収穫時期の人手不足の解消を狙っている。
3人家族だった福田家は、御浜町で娘が増え、4人家族となった。
「長女はこっち生まれました。奥さんには、経理とか、資金運用的なことは全部やってもらってますね。あとは、僕の愚痴を聞いてもらうことかな。これが結構重要で、毎日聞いてもらうだけでも自分としてはかなり助かってます(笑)」
と教えてくれた。
「あと、物を売るのが好きみたいで、農協に出せないみかんを地域の産直市場で捌いてもらっています。それと、「ふくだ農園の福々みかん」というホームページを持っていて、そこから注文がきたりもします」
最近、借りていた農地を返しているという話を耳にしたので、その理由についても尋ねた。
「僕1人でやっているので、手が回らなかったこともあって。借りていた小さな農地は返して、集約して1人の労力を合理的に使えるようにしようと思っています。今年は新規就農者が多いので、すぐにお金になる農地を新規就農者の方々にやってもれえればという想いもあり、農林水産課の方に話を持っていきました」
神奈川県から三重県に移住して8年。そして、みかん農家になって2月で5年目を迎える現在、何か心境の変化などがあったのだろうか
「とにかく、地域の色んな人にお世話になって、助けてもらって何とか生き延びてこられたので、これからはこの地域や土地に恩返ししていきたい、という思いが強くなっていますね」
元々、植物が好きだった福田さんに農業のやりがいを尋ねてみた。
「自分が作ったみかんをおいしいと言われるのも嬉しいことです。僕の場合は外に出て植物を相手にしているだけで、昂るものがあるんですよね。好きなんですよね、農業が。農業は奥が深くて、正解がないので、飽きないですね。一生懸命やっても台風で全部駄目になるとか、そういう厳しい面も感じますけど。僕は普通の会社勤めが辛くて辞めた人間で、家族がいてお金を稼がないといけないので、自分の『好きなこと』と『仕事』って考えた時に農業が凄く自分に合っていた感じですかね」
農業を他人におすすめしたいと思いますか?
「万人に勧められるかって言うと、僕はそうだとは思わないですね。農業も良いことばっかりじゃなくて、きついこともあります。でも、好きだったら凄く良いと思います。」
「御浜町は良い所ですね。僕も大好きで住んでいるんで。人も土地も良い所ですし。
作業していて、ふと顔を上げた時に、木とか山とかのある風景を目にすると。改めて、良かったなぁと思うんですよ。こっちに来て良かったなって。いつも幸せで、自然にエネルギーを分けてもらっている感覚ですね。
「今までの生活から脱出して、今のこの生活に入れて良かったなぁと思うことは未だにありますね」
「長男は勉強が好きじゃないみたいで、パパと一緒にみかんを作るから勉強はいいよって言い出して、勉強しない言い訳だろって突っ込んだけど、 思いのほか嬉しくて」
と、照れ笑いを隠しながら、長男とのエピソードを話してくれた。
「今までは、子供にバトンタッチするとか考えたことなかったですけど、もし、本当にそういうことになるんだったら、もっと頑張って、色々やる価値もあるのかなと。モチベーションが上がりました」
「挑戦したいことは、とにかく味一号を増やしたいってことですかね」
そして、
「知らない土地にきて、農業で生計を立てて、家族を養っていけていることが僕にとっては大成功なので。それを維持し続ける。もしそれで、『他所から来たけど、みかんで家族を養っている福田って言うのがいるらしい』みたいな、1つの成功例のような形になれたらなと。そんな大それた想いもありますね」
太陽が降り注ぐ、山々に囲まれたみかん畑で、そんな真っすぐな熱い想いを語ってくれた。
(2023年11月 取材)
▼福田さんの物語を、動画でもお楽しみください!
三重県御浜町では、みかん産地を持続可能なものとするために様々な取り組みを行なっており、新規就農希望者へのサポートも注力しています。希望内容・移住時期など、お一人おひとりの状況に合わせた対応をしています。
御浜町の就農支援について 詳しくは↓
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