30-40代/阿田和大敷漁業組合
山口真也さん / 濵本竜太郎さん / 東諒輔さん
三重県南部に位置する御浜町は、自然豊かで青く美しい海が広がる小さな町。柑橘栽培が盛んで『みかんの町』として知られるが、漁師を生業にしている人達もいる。
30~40代の若手が中心となって切り盛りする「阿田和大敷漁業生産組合(通称 阿田和大敷)」は、太平洋の熊野灘で定置網漁を営む組合法人だ。地元出身者だけでなく、移住して漁師になった人もいるという。阿田和大敷で働くこと・ライフスタイルについて、漁師たちに話を聞かせてもらった。
朝4時半。漁師の朝は早い。
辺りがまだ真っ暗な中、阿田和大敷の漁師たちは2隻の漁船に乗り込み、拠点としている鵜殿港から出航。3月の初旬、日の出前の冷たい風を受けながら船に揺られ、定置網を仕掛けてある漁場へと向かう。
30分ほどで漁場に着くと、2隻の船で定置網を、両側から少しずつ引き揚げていく。網の底が見えてくると、様々な種類の魚がビチビチと跳ねていた。
最後は船のクレーンで網を揚げて、氷水で満たした魚槽に魚を入れていく。
東雲の時を迎え辺りが明るくなってくると、魚を狙う海鳥がどんどん集まり賑やかになっていた。
この日は魚の入り具合を見ながら、網揚げの作業を4回行い港に戻った。
阿田和大敷の「大敷(おおしき)」とは定置漁網の一種で、規模の大きいものを言う。小さいものは「小敷網(こしきあみ)」と呼ばれるそうだ。
阿田和大敷は昔からの親方たちが集まって立ち上げた会社組織で、定置網を仕掛けている漁場は御浜町海岸部の阿田和地区から約3キロの沖合。現在は隣町紀宝町の鵜殿港を拠点港とし、20代から60代まで13人のサラリーマン漁師がワイワイと楽しく漁をしている。個人の漁師との違いは、会社であり定置網漁だからこそ、安定して給与がもらえること。歩合給もあり、大漁の時には基本給以外の支払いがたっぷりあるそうだ。さらにはボーナスもある。
1日の仕事の流れは、おおむね日の出前に出航し、漁場で魚を引き揚げて帰港、陸(おか)で魚の水揚げと選別、船の清掃などを終えると朝の仕事は終了だ。阿田和大敷では、この後おいしい朝ごはんをみんなで食べ、休憩。魚の量にもよるが、その後浜で網の修繕仕事などをして、大体昼の12時頃に1日の仕事は終わる。その後、漁師たちは午後の時間を自分や家族のために有効に使い、充実した生活を送っているそうだ。
大漁の時は網の引き揚げ作業だけでなく選別にも時間がかかるが、漁師たちは歩合給やボーナスが増えるとあって気分も上々で頑張れるのだとか。
選別が終わった頃には競りが始まり、仲買人によって競り落とされた魚は各地に運ばれていく。
選別仕事が終わると、早い時は朝の7~8時、みんなで”昼ごはん”をいただく。福利厚生の一環で、シェフ担当の漁師(元中華の料理人)がおいしいご飯を毎日作ってくれるのだ。
取材に伺った日のメニューは魚料理ではなく、大きな鍋に肉も野菜もたっぷり入った熱々の餡かけ焼きそば。漁師たちはハフハフ言いつつご飯を食べると、笑い声もにぎやかに一仕事終えた解放感を味わっていた。
漁師メシ―ここでも昔は獲ってきた魚を刺身や煮つけにしたが、今はうどんやから揚げ、麻婆豆腐のようなエネルギー摂取型の今時のメニューになったそうだ。
「定置網漁」とは、沿岸部の魚の通る一定の場所に固定式の網を仕掛け、魚が中に入るのを待つ漁法のこと。先人の知恵を受け継ぐ「待ちの漁」とも呼ばれる受動的な漁法で、魚を根こそぎ獲ることのない「資源管理型漁業」「省エネ漁業」として、近年見直されている環境にやさしいサステナブルな漁業だ。
阿田和大敷では、11月〜7月下旬の期間を漁期とし、8月~10月の台風シーズンは定置網を上げて漁をしない。その間は網やブイなど漁具のメンテナンスを、陸で行う。
仕掛けた網の引き揚げは、人力ではなく巻き上げ機を使う。網底の魚を揚げる最後の引き揚げ作業だけは、人力と機械で調整しながら進める。
ここでは機械化が進んでいて過酷な力仕事というものがほとんどなく、想像していた漁師の姿とは全く違っていた。
機械化により漁師の肉体的な負担は減ったが、自然相手の仕事なので危険はつきもの。仕事の中で一番大変なことは、海が荒れることで普段は安全な船上が危険な場所に変化することだ。天候が荒れ高波で船が揺れると、鉤(カギ)など掛けて張ってあるものが思わぬところで外れ飛んだり、挟まれたりといったケガや事故の危険性が増す。
普段から天気図を観察し、天候の荒れそうな時は船を出さなくて済むように備えている。阿田和大敷の漁師たちは常に安全を心掛け、緊張感を持って仕事に臨んでいる。
阿田和大敷では社会保険、雇用保険、有給休暇など一般の会社と同じ制度が整えられている。
給料は基本給のほかに、魚の水揚げ(獲れ高)に応じた歩合制の配当金がプラスされる。また、年間を通した総水揚げが一定額を超えた場合もボーナスがつく。月によって給料以外に20~30万円の配当金があったり、過去、年間総水揚げが多かった時はボーナスが3桁の時もあったそうだ。
魚の鮮度を保って水揚げ額を上げる努力もする。鮮度によって競り単価が変わってくるので、「少しでも価値のある魚になるように」と扱いにはかなり気を遣う。仕事内容(魚の量・種類・鮮度など)と給料が直結して目に見えるので、漁師たちにとってかなりのモチベーションになっている。
山口真也さん、御浜町阿田和出身の47歳。25歳で阿田和大敷に就職し、現在副船長を務めている。
高校卒業後、愛知県で就職したが半年ほどで地元へUターン。いろいろな仕事を経て阿田和大敷での漁師の仕事に興味を持った。きっかけは、地元の会社なので子どもの時から知っていたこと、親方の一人が小さい頃から仲良くしてきた先輩だったこと。もともと海好きで、海に携わる仕事というだけでも楽しそうと思ったそうだ。そして決め手は、「働きながら趣味のサーフィンができる」と思ったから。
「仕事が終わって昼から時間があるので、気分が乗った時に『海に遊びに行こう』ってサーフィンに出掛ける。22年やっていて、仕事もプライベートの趣味も満足してます。自分には向いている、ベストな仕事やなと思っています」と満足げに話した。
御浜町を含め、海あり山ありの大自然に囲まれたこの地方は、アウトドアを楽しむのにピッタリのロケーション。釣りやサイクリングに行ったり、川遊びしたり。山歩きや熊野古道も楽しめる。「時間があると本当に楽しめる所ですね」と山口さん。
サーフィンのスポットは尾鷲から和歌山県までいろいろ。御浜町近辺だけでも10か所ほどある。山口さんがよく行くのは車で5分の近場から30分くらいの所。時間さえあれば、行きたいと思ったらすぐに行ける。
「僕はサーフィンが趣味だけど、釣り好きの人は大敷で朝から漁に出て、終わった後自分の趣味で釣りをして、そこで釣った魚をさらに市場に出してお小遣いにしている人もいますよ。阿田和大敷は副業OKなので」と教えてくれた。
仕事が早く終わる代わりに朝がとても早いことについては、「慣れれば問題ないですね。魚が多い時期は4時半出航ですが、漁をしない時期になると5時半出勤。出航の時も合羽を着て船に乗り込むだけなので、準備の時間とかもありません」
会社の課題を尋ねると、「若い子から年配の人まで年齢関係なく、みんな楽しい雰囲気でやってますけど、一つ言うならもう少し人数がいたらな、とは思います。海好き・釣り好き・魚好きの人はもちろん向いてると思うけど、元気さえあれば大丈夫!元気のいい人が入ってくれたら嬉しい」と話した。
定置網漁は個人の漁師と違い未経験者も就職しやすい。阿田和大敷に入って最初に覚えることは、「5種類のロープの縛り方」、それだけだ。「それ以外は周りの人が教えてくれたり、やっているうちに自然に覚えていく。Iターン移住者の乗組員もいるし、条件があえば誰でも大丈夫。未経験者でも安心して働けますよ。」
やりがいを感じるのは大漁の時。引き揚げ作業中に良い値の付く魚が大漁だとわかると、「水揚げ額を考えてクワクしてテンションが上がる」と言う。「漁師は獲れてなんぼ。大漁の時はやりがいも感じるし、一番楽しくて嬉しい。今後、年間の水揚げは更新したいですね」と意気込みを語った。
阿田和大敷の中堅、14年目になる濵本竜太郎さん(36歳)は御浜町下市木出身で、妻と子ども5人の7人家族。
親方からの誘いで転職したが、初めは朝が早いことや船に乗ることなどが不安だったうえ、船酔いがとても酷かった。酔い止めの薬を飲みながら頑張ること1か月、早朝出勤にも船酔いにも慣れて大丈夫になった。
仕事は入った頃と比べると機械化が進んで随分と楽になっていて、「前職よりもこっちの方がずっと楽。カッパ着て暑いとかありますけど、体力面ではしんどくない」と言う。世代交代が進み、高校の同級生が入ってきたのもあって、濱本さんにとって阿田和大敷は “働きやすい職場”だ。
「嬉しいのはやっぱり大漁の時。引き揚げ途中で網の中でブリが湧いて周ってるのがわかる。で、揚げた時に大漁だと嬉しいですね。配当もあるし」とニヤリ。
就職した当初は今より給料が少なかったのもあり、昼からの時間を使って副業をしていたが、年数を重ねると共に給料が上がり副業はやめた。奥さんは専業主婦で、自身の収入だけで熊野市の住宅地に家を建て、5人の子供を育てている。
今では、午後3時~6時の間は子ども達の少年野球のコーチをしている(他の仕事だと、この時間帯に動ける人がほとんどいない)。結果的に子ども達と過ごす時間が増え、充実した暮らしを送っている。
有給休暇は使いやすい雰囲気でいつでも使えると言いつつ、「子供の野球大会の時くらいしか使わないかな(苦笑)。この仕事が楽しいから、ほとんど休まないんです」と、笑顔で語った。
濵本さんと高校の時から同級生である東諒輔さん(36歳)は、御浜町中立出身、妻と子どもの4人家族。
阿田和大敷に入って4年目。もともと個人で伊勢エビ漁師をしていたが、獲れ高が減ってきたのをきっかけに大敷へ就職。伊勢エビ漁も続けていて、二刀流漁師としてバリバリ働く日々を送っている。
伊勢エビ漁は一人でやるものだが、「今は会社で人がたくさんいて、すごく楽しい。同じことを一緒に頑張って、みんなで喜び合えるところが今までにはなくすごく楽しくて」と東さん。みんなで楽しく仕事ができたらいいとの思いから、よくコミュニケーションをとるよう心がけている。そんな東さんの存在が職場全体の雰囲気を明るくしている。
東さんは紀南漁業協同組合で漁師をやりたいという人のために、働きやすい環境作りにも取り組んでいる。そこには「自分自身しっかり稼ぎたい」ということだけでなく、「漁師は失くしてはダメ。今後絶対必要な商売。一回絶やしたら復活させるのはものすごく大変だから繋いでいかないと」という強い思いがある。
水産業では、大手会社の大型巻き網漁船などで獲る魚と、個人や阿田和大敷のような組合などで獲れる魚は種類が違う。現在どんどん数を減らしている個人漁師らは近海魚を供給してきた。「昔から磯物と言われる近海ものは日本人の食を支えてきた。日本の食文化として根付いているし、絶やしてはいけない」。
一方で、漁業の世界は許可制などなかなか難しい業界。若い人や新しい人が入って育っていけるような環境づくりが必要と言う。他の大敷では正組合員として漁業の権利を取る資格があるので、紀南漁協でもそれを行使できるようにしたいと東さんは考えている。「僕一人の力では無理なので、町や県含め、色んな人に協力してもらって実現できれば。僕ら世代のグループがやらないと誰もやってくれない。それができれば、自分のためにも他のみんなのためにもなる」と将来を見据え熱く語った。
「魚好きとか獲るのが好きとか。”捕まえるのが好き” というのは結構必要なんじゃないかな。僕も夜になったら鰻獲りに行ったりとかもするし、同じような感じかな。そういうのは大事だと思います」と東さん。(鰻獲り?!と思う人もいるかもしれないが、この辺りでは川で鰻が獲れるのだ)
阿田和大敷では先輩の濵本さんについて、「もう、すごく仕事ができる。昔の人は『オレの背中を見て覚えろ』みたいな感じだけど、彼はそんな環境で揉まれてきて、これではアカンって思ったんだと思う。もう全部教えてくれる。『これはこうした方がええ』って口で言ってくれるから、すごくありがたいし勉強になる」と、共に仕事に励む友への信頼を語った。
沖からの眺めについて聞いてみると、「漁師は朝が早いから、日の出を毎日見られます」と山口さんが言った。
「漁場に着くまでの間、夜空に流れ星が見えたり」
この地方の豊かな自然を日々当たり前に感じながら、時に美しく、時に過酷な海を相手に仕事に励む漁師たち。彼らは今日も大漁を願って、沖へと船を進める。
(2022年7月・23年1月 取材)
▼阿田和大敷の物語を、動画でもお楽しみください!
移住を考える人へ
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