Uターン/30代・60代/みかん農家/3人家族
裏 章弘さん・佳隆さん
「畑には毎日来てます。仕事が休みの日でも朝、畑へ来て、木の状態を確認する。やっぱり、こまめに園地に足を運ぶっていうのが大事だと思います」
365日、みかんに会いに行く人がいる。毎日、成長を見守り大切に育てたみかんは、一体どんな味がするのだろう?
裏 章弘(うら あきひろ)さん(61歳)、佳隆(よしたか)さん(35歳)親子は、セミノールを中心に、超極早生温州みかん、極早生温州みかん、デコポン、ハウスせとか、を手掛けている。親子は、三重県御浜町で生まれ育った。息子の佳隆さんは高校卒業後に都会へ出たのち、20歳の時に御浜町へUターンしてみかん農家になった。
章弘さんは、高校卒業後に農協へ就職。入社して5年ほど経った頃から、少しずつ自分で畑を借りて、兼業農家としてみかんを栽培していた。当時から農家の担い手不足の問題も案じており、「いずれは専業農家になりたい」という想いが募っていったという。
章弘さん「農協に入ってすぐにみかんの営農指導員をすることになり、みかんに接する機会が多くなりました。そのうちに、自分でもう少し柑橘を作ってみたい、という想いが生まれました。そんな時に、広い畑が売りに出ているという情報を聞いて、思い切って土地を買って専業農家になろうと。相談せずに独断で買ってしまったので、奥さんにはものすごく怒られました(笑) 。でも、すぐに協力的に手伝いをしてくれるようになりましたね」
みかん作りに専念するため、47歳で農協を退職。そんな時、東京に進学していた息子の佳隆さんが御浜町へ戻ってくることに。いいタイミングだった。
佳隆さん「元々は農業をやるつもりは全くなかったんですが、東京の生活が宙ぶらりんなところもあって。そんな時に実家が畑を買うと聞いて、帰ってこようかな、って思ったのが最初のきっかけです。実際園地に来てみると、この広さですから(笑) 。もうやるしかないな、って思いました」
裏さん親子が手掛けている園地の面積は、約3.7ヘクタールと広大だ(参考:東京ドームの敷地面積は約4.7ヘクタール)。 それだけ作業にも時間と労力が必要なため、セミノールの袋かけ作業や収穫時などの繁忙期には最大10名のパートさんらと共に作業を行っている。
父である章弘さんは専業農家として、佳隆さんはみかん農家として、二人で同時にスタートを切った。
兼業農家としてのキャリアがあった章弘さんとは違い、みかん作りは全くの素人だった佳隆さん。当時、弱冠20歳。父親の作業の様子を、見よう見まねでこなす日々だったという。そのうち、佳隆さんのように一度は御浜町を離れ、数年後にUターンして実家のみかん農家を手伝う同世代との出会いが増えた。そんな周りからの刺激を受けて、みかんへの向き合い方も少しずつ変わっていったという。
佳隆さん「始めた頃は若かったので、アルバイト感覚みたいなところもあって。最初の5年くらいは、ただ言われたことをやるっていう感じでした。25、26歳の時に、同世代のみかん農家と繋がりだしてから、真剣に自分で考えるようになっていきました。いろんな人と会って、話を聞くうちに、とにかくできることをやろうという風に変わっていきました」
章弘さんは、佳隆さんの仕事ぶりをこう話す。
章弘さん「真面目に仕事をしています。朝も早くから来ますし。みかんの木と向き合ってコツコツとやるところが、本当に尊敬するところです」
15年間、佳隆さんのみかん農家としての歩みを、一番近くで見守ってきた父・章弘さん。息子の成長を間近で見られることは、何よりも嬉しかっただろう。
章弘さん「どんな作業でも安心して任せられるようになりました。今では逆に僕の方が教えてもらう。言葉ではなく、息子がやっていることを僕が見て、『こういうこともあるんだ』って感心することもあります。親子で農業をする良い所は、気兼ねなく言いたいことが言い合えるところかな。逆に、強い言葉で叱ってしまうこともあって、あとで後悔します(苦笑) 。あとは、1人じゃないので相談しながら作業の組み立てができることが、一番いいと思います」
はじめは、親が子どもを教え導く。そしていつしか、子どもが親を導く日がやって来る。親子で同じ道を真っすぐに歩んできたからこそ、お互いを敬い合う関係が生まれた。
御浜町が「年中みかんのとれるまち」というキャッチフレーズを掲げてから40年余り。みかん農家たちの努力が、年間を通して様々な品種のみかんを提供できる町を実現した。中でも注目すべきは、9月上旬に収穫が始まり出荷される「超極早生温州みかん」。他産地と戦える強いブランドで、本州で一番早く出荷される、希少なみかんだ。
章弘さん「青いみかんはまだ酸っぱいイメージがあると思うんですが、超極早生の場合は青くても美味しいのが特徴です。今は価格が高値で安定しているので、一生懸命作れば十分採算はとれると思います。9月に超極早生みかんを出荷して、スーパーの売り場が確保できて、それに続いて極早生から早生みかんへのリレー販売ができる。つまり、他産地より有利な販売ができる流れがあります。我々の先輩たちが苦労して築き上げてきた産地のブランドを、今後も続けてほしい、守ってほしいっていうのが素直な気持ちです。1人でも多くの若い子たちに、御浜町でみかん作りをやってほしいと思います」
水はけがよく、乾きやすい土壌。そして傾斜が少なく作業性の良い農地。いくつかの条件が重なり、みかんが適地適作だと、御浜町のみかん農家は口を揃えて話す。
初心者でも始めやすい、恵まれた土地。そんな場所で、例えば温州みかん以外にマイヤーレモンなど幾つかの品種を複合的に手掛ければ、栽培におけるリスク・労力共に分散することができる。まさに「年中みかんのとれるまち」だからこそ叶えられる、理想的なモデルだ。
裏さん親子が生まれ育ったのは、御浜町引作(ひきつくり)地区。かつて伐採の危機を乗り越えた「引作の大楠」は、引作神社のご神木。章弘さんは月に1度、神社の清掃をしながら、集落を見守るご神木を眺めて「この地に生まれてよかったな」と、思いを巡らせるそうだ。
章弘さん「みかんは春に芽が出て、5月に花が咲いて、夏の暑い時期に果実が大きくなって。温州みかんは秋、晩柑類は春に収穫をする。みかんの生育を見ながら、季節の移り変わりを肌で感じながら仕事ができるなんて、魅力的ですよね」
2人にとって、みかん作りの醍醐味とは?
章弘さん「苦労して作ったみかんが高く売れた時が、一番農家として嬉しいんじゃないでしょうか。うちは農協出荷がほとんどですが、たまに個人的に分けてほしいという人もいて、『美味しかったので、頼むからもう少し分けてくれない?』という声をもらう時は、みかん作りをしていて良かったな、と思います」
佳隆さん「見た目・内容の両方とも満足のいくみかんができた時ですね。上手くいかないこともたくさんあるんですけど、たまに結果が出た時が嬉しいです。糖度がどうとかってあるんですけど、やっぱり食べた時に美味しいと思えるみかんが僕はいいと思います」
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ……」農家に休みは無い、そんなイメージを持つ人も多いだろう。「農家は360日働く」というのが当たり前だったのが、時代の変化に合わせて「休む時は休む」という風に変わってきた。それでも、できる限り毎日、園地に足を運ぶという章弘さん。その心は、みかんの木の微々たる変化を見逃さないため。
佳隆さん「父の尊敬するところは、365日毎日、畑に来ることですね。これは簡単そうに見えてなかなか真似できることじゃない」
15年間、父の背中を通して、みかん作りへの真っすぐな姿勢を見つめてきた佳隆さん。彼自身も、どんな時でも畑に来ることを大切にしているそうだ。それは強制されたものではなく、父から自然と受け継がれた、裏家のみかん作りのDNAだ。
同じ歳月を共に歩んできた2人は、御浜町のみかん農家としての未来をどう描いているのだろう。
章弘さん「専業農家になった当初は、自分の経営で手一杯で、あまり周りを見る余裕がなかったんです。でもやっているうちに、産地全体のブランドが一番大事やなって気づきました。みかんの産地として生き残っていく為に、いろいろな計画を立てて、その達成に向けて皆で連帯感をもって頑張っていく。高齢化の中で、助け合いをしながらやっていかなあかんな、と思います。みかん作りを継続するにあたっての一番のネックは、広い畑を維持するための労力の確保。僕の夢なんですけど、息子の代になる時には法人化できたらな、と思っています」
佳隆さん「産地を守るためには、とにかく最低限、今ある生産量を守ることだと思います。減っていくと産地として価値のないものになっていくと思うので。あんまり前向きな言葉ではないですけど、現状維持、とにかくそれを守っていきたいと思います」
「親子でみかん作りをすることは、1+1は2じゃなくて3にも4にもなることです」章弘さんが、そんな素敵な言葉を残してくれた。その言葉の意味は、1つの作業を2人でやるよりも、作業の分散をすることで効率よく仕事をこなすことができる、という実務的な意味。そしてもう1つの意味は、親子が互いの知識と経験を持ち寄ることで、1人で作るよりも、より美味しいみかんを作るためのアイデアが生まれるということ。そしてそれは、お互いへのリスペクトがあって初めて、成り立つ計算式なのだろう。
(2021年11月取材 文・益田 奈央)
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